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~プロデュース・マネジメント~

『自己マネジメントの研究Vol.6』《“教育ある人間”が社会をつくる》

テーマ毎のまとめ(プロフェッショナルの条件/P.F.ドラッガー)

2.自己実現への挑戦

【2】“教育ある人間”が社会をつくる
●社会の能力を規定するもの
知識社会への移行とは、人間が中心的な存在になることにほかならない。そして、知識社会への移行は、知識社会の代表者たる教育ある人間に対し、新しい挑戦新しい問題、さらには、かつてない新しい課題を提起する。

知識社会では、この教育ある人間が社会の表徴となり、基準となる。教育ある人間が、社会学で言うところの社会的モデルとなる。彼ら教育ある人間が社会の能力を規定する。同時に、社会の価値、信念、意志を体現する。

教育ある人間は、知識が中心的な資源となるポスト資本主義時代における社会の代表である。その結果、教育ある人間の意味そのものが変わらざるを得ない。教育ある人間なるものの定義が、決定的に重要になる。知識が中心的な資源になるに従い、この教育ある人間が、新しい要求、新しい課題、新しい責任に直面する。教育ある人間は、要の存在である。何をもって教育あるとすべきか。現在の体制に、普遍性のある教育ある人間がいない。

●知識社会における中心的存在
知識社会は、教育ある人間をその中心に据えざるをえない。教育ある人間は、知識社会がまさしく専門知識の社会であるがゆえに、そしてまた、その通貨、経済、職業、技術、諸々の課題、特に情報がグローバルであるがゆえに、普遍的な存在たらざるをえない。

ポスト資本主義社会においては、求心力が必要である。諸々の独立した伝統を、共有の価値への献身、卓越性の追求、相互の尊重へとまとめあげるものが必要である。普遍性をもつ教育ある人間を必要とする。教育ある人間は、未来を創造するためと言わないまでも少なくとも現在に影響を与えるために、自らの知識を役立たせる能力をもたなければならない。

教養課程や一般教養が危機に直面している。今日の若者は、大学を卒業して数年後には、「勉強してきたことに意味がない。現在していることや、関心あることや、なりたいと思っているものと関係がない」と言う。自らの生活においては、教養課程も一般教養も完全に拒否している。もちろんそのような考えは的外れである。

ポスト資本主義社会は、これまでのいかなる社会にも増して、教育ある人間を必要とする。偉大な遺産を理解することを不可欠とする。われわれの必要とする教育ある人間は、西洋文明、ユダヤ・キリスト教のみならず、中国、日本、朝鮮の絵画や陶磁器、東洋の哲学や宗教、そして宗教及び文明化としてのイスラムを理解する。教育ある人間は、分析的な能力だけでなく、経験的な知覚をもつ。

とはいえ、教育ある人間が、未来はともあれ現在を理解するためには、西洋の伝統を中核に据えざるをえない。未来は脱西洋かも反西洋かもしれないが、非西洋ではない。未来の物質文明と知識は西洋を基盤とせざるをえないかもしれない。すなわち、科学、道具、技術、生産、経済、通貨、金融、銀行である。それらはいずれも、西洋の思想や伝統を理解し、受け入れなければ機能しない。

明日の教育ある人間はグローバルな世界に生きる。そのグローバルな世界が、西洋化された世界である。彼らは、ビジョン、視野、情報において世界市民である。しかし同時に、自らの地域社会から栄養を吸い取るとともに、逆に、その地域文化に栄養を与える存在である。

●知識社会と組織社会
資本主義の社会、すなわち、ポスト資本主義は、「知識社会」であるとともに同時に、「組織社会」である。この二つの社会は、相互依存関係にありながら、概念、世界観、価値観を異にする。教育ある人間の大部分が、すでに述べたように、「組織」の一員として自らの「知識」を適用する。したがって、教育ある人間は、二つの分化、すなわち一方は、言葉や思想に焦点を合わせた知識人の分化と、一方は、人間と仕事に焦点を合わせた組織人の文化の中で生き、働く。

知識人は組織を手段としてみる。組織のおかげで、彼ら知識人は、彼らのテクネ(技術知)、すなわち、その専門家された知識を適用することが可能となる。他方、経営管理者は、知識を、組織の目的を実現するための手段として見る。互いが互いを必要とする。

知識人の世界は、組織人による均衡がなければ、「好きなことをする」だけとなり、意味あることは何もしない世界になる。組織人の世界も知識人による均衡がなければ、形式主義に陥り、組織人間が支配する無気力な灰色の世界に堕する。両者が均衡して初めて、創造と秩序、自己実現と課題達成が可能となる。

ポスト資本主義社会においては、多くの人がこの二つの文化の中で生活し、仕事をする。ますます多くの人が両者の文化で働く経験をもつ。そうならなければならない。若いうちに経営管理的な仕事に就かせ、経験をもたせることが必要となる。

ここにおいて、社会セクターの非営利組織における無給スタッフとしての経験が、知識人の世界と組織人の世界の双方について、偏りなく見、知り、敬意を払う能力を与える。ポスト資本主義では、すべての教育ある人間が二つの文化を理解できなければならない。

●テクネ(技術知) ー 教育ある人間の条件
テクネが専門知識となった今日、それは一般知識として位置づけられなければならない。テクネは、教育ある人間たるべき条件の一つとならなければならない。

今日、教育ある人間が、大学時代に楽しんだ教養課程を捨ててしまうのは当然である。それだけの理由がある。専門知識を一般知識へと統合できない教養課程や一般教養は、教養ではない。教養としての第一の責務、すなわち、相互理解をもたらすこと、すなわち、文明が存在しうるための条件たる対話の世界をつくり出すことに失敗しているからである。

われわれが真に必要とするものは、多様な専門知識を理解する能力である。そのような能力をもつ者が、知識社会における教育ある人間である。

われわれは専門知識のそれぞれについて精通する必要はないが、それが「何についてのものか」「何をしようとするものか」「中心的な関心事は何か」「中心的な理論は何か」「どのような新しい洞察を与えてくれるか」「それについて知られていないことは何か」「問題や課題は何か」を知らなければならない。

これらについての理解がなければ、自らの専門知識が不毛となる。なぜならば、今日、重要な新しい洞察の多くが、まったく別の専門分野、別の専門知識から生れているからである。

あらゆる専門知識が同じように価値をもつ。中世の偉大な聖人で、哲学者ボナヴェントゥーラの言葉を借りるならば、すべての専門知識が真理にいたる

これから起こる最大の変化は、知識における変化だということである。すなわち、知識の形態、内容、責任、そして教育ある人間たることの意味の変化である。

要点整理

●知識社会の中心になる教育ある人間
知識社会に移行したがゆえに、中心となるのは教育ある人間である。そして、知識社会への移行は、知識社会の代表者たる教育ある人間対し、新しい挑戦新しい問題、さらには、かつてない新しい課題を提起する。

●教育ある人間に必要な『普遍性』と『一般教養』
教育ある人間の定義が決定的に重要になる。ポスト資本主義社会は普遍性をもつ教育ある人間を必要とする。明日の教育ある人間はグローバルな世界に生きる。彼らビジョン、視野、情報において世界市民である。教育ある人間は、多様な知識を理解する能力を必要とする。教養課程や一般教養を必要とする。教養としての第一の責務は、相互理解をもたらすこと、すなわち、文明が存在しうるための条件たる対話の世界をつくり出すことである。今日、新しい洞察の多くが、まったく別の専門分野、別の専門知識から生れているからである。

●『知識社会』と『組織社会』の理解が教育ある人間には必要
ポスト資本主義では、すべての教育ある人間が二つの文化、すなわち、知識社会と組織社会を理解できなければならない両者が均衡して初めて、創造と秩序、自己実現と課題達成が可能となる。

所 見

●AIの到来で知識社会は今後どうなるか
今の社会は、既に完全に知識社会へ移行したと言っても良い。ITはもちろんのことAI(人工知能)が普及し、2045年にはシンギュラリティ、すなわち、人工知能が人間の知能を超える時代が到来すると言われている。また、今まで肉体労働が主流であった工場でもロボット化が進み人為的作業は減少。人間の存在は、脅かされてきているように見える。人工知能の能力は、大量の情報処理論理的思考能力である。また、学習による進化も可能である。ドラッガーが示した知識社会から更に進化したAI(人工知能)社会が到来した昨今、人間に求められるものはどうなってくるのか。

●専門知識による垂直思考の限界
自己実現のための自らのマネジメント、組織のマネジメント、ダイバシティ(多様性)とイノベーション必須の社会、急速に進む知識社会のグローバル化、AI社会の到来。いずれのテーマにおいても、従来の専門知識のみの垂直思考では、対応できなくなった。

●スーパージェネラリストが知識社会、AI社会をも貫く
これからの時代、重要な人物像となるのは、それらのテーマを全て超越する『スーパージェネラリスト』だと思う。卓越した専門分野の他に水平思考ができる。すなわち、多様な知識、教養を有し、物事を総合的に考えられる力、言い換えれば、物事の本質を洞察し、全体像を俯瞰して見ることのできる力を有している人物。さらには、必然的能力として、直観的悟性をも有する人間である。

●AIを凌駕できる人間の能力とは
一つのテーマをより深い次元まで深めようとすると、専門分野だけでなく、他の専門分野の知識、理解力が必要となる。例えば、「人間とは何か」というテーマを研究していけば、哲学が必要となり、心理学が必要となり、人類史が必要となり、もっと枠を拡げると宇宙物理学、魂力学まで拡がる。そして、そのプロセスで直観や閃きが大抵の場合は起きる。この先どれだけ人工知能が進化しても直観的悟性を有することはありえない。それが、AIとの差別化であり、人間特有の能力になると思う。

先日、将棋棋士の藤井聡太氏が、将棋の対局でAIが予想した多くのシュミレーションを覆す一手を打ち勝利を収めた。この事例は、まさに、このことを示したのではないかと思う。

●教育ある人間のモデルになり得るスーパージェネラリスト
ドラッガーは、知識社会においては、教育あるものが必要だと述べている。それは、普遍性多様な知識、教養のある人間だと述べている。その能力は、物事を総合的に見、深く洞察し、抽象的世界に還元し、新しいものを生み出し、また、柔軟な発想と対応を可能とする地頭力を有する能力と言い換えることができると思う。また、教育ある人間とは、これからの時代、スーパージェネラリストのことではないかと思う。

自己実現を果たし、社会や組織に貢献し、社会の様々な問題をブレイクスルーしていくためにも、スーパージェネラリストを目指す自己マネジメントが重要となってきているのではないだろうか。

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