『組織マネジメントの研究Vol.9』【社会的責任②】
テーマ毎のまとめ(マネジメント『基本と原則』/P.F.ドラッガー)
9.社会的責任②
【1】企業と政府
●政府との関係をどう考えるか
政府と企業が協力して取り組むべきものと、別個に取り組むべきものとを見分けなければならない。現在のところ、政府と企業の関係について、答えを出す段階にはいたっていない。したがって、問題の考え方や基準を手にしておかなければならない。
●歴史上のモデル
われわれの教科書は、今日にいたるも、資本主義経済すなわち市場経済における政府と企業の関係をあらわすモデルとして、自由放任(レセ・フェール)を説いている。しかし、自由放任とは、第一に、経済理論のモデルであって政治理論や政府活動のモデルではない。第二に、自由放任は経済についても、イギリスで19世紀中ごろのごく短い期間に行われたにすぎなかった。
政府と企業の関係を律してきたのは、重商主義と立憲主義である。
重商主義モデルでは、経済とは国の主権、特に軍事力の基盤である。企業人は官僚に比べ社会的に劣るものとされる。今日においても、行政に携わる者の任務は、企業を支配し、強化し、奨励すること、特に輸出を支援し奨励することにあるとされている。
立憲主義モデルは、政府と企業は対立関係にある。両者の関係は、法律によって規制されるべきものとする。自由放任を信じていない。企業に「何々するなかれ」と言う。反トラスト法、規制機関、刑事告発を行使する。
重商主義、立憲主義のいずれも政治モデルである。一世紀以上にわたり、政府と企業の関係について規範となり、指針となってきた。世論に対して、何が正しく、何がまちがっているかを判断するための基準を与えた。この二つのモデルは、政府と企業の関係を決定ずけることはできなかった。
●新しい問題
今日、立憲主義も重商主義も陳腐化した。それは、四つのことがあったからだ。
①混合経済の進展
政府と企業の活動とがからみあい、しかも両者が競合関係にあるという混合経済では二つのモデルは役に立たない。
②グローバル企業の発展
③社会の多元化
組織社会においては、政府はそれぞれ特有の目的を持つ無数の組織の一つにすぎない。企業マネジメントに社会的責任が生じ、政府の地位や役割に独自性がなくなった。
④マネジメントの台頭
オーナー兼起業家に代わるものとしてのマネジメントの台頭がある。二つのモデルは、いずれもオーナーたる企業人を一方の主役とする。政府の人間と酷似したグループとしての企業のマネジメントである。
●解決策を判断する基準
今日期待できるのは一時的な答えである。しかしそれらの答えは、四つの最低限の基準を満たさなければならない。
①企業とそのマネジメントを、自立した責任ある存在としなければならない。
②変化を可能とする自由で柔軟な社会を守らなければならない。
③グローバル経済と国家の政治主権とを調和させなければならない。
④機能を果たす強力な政府を維持強化しなければならない。
【2】プロフェッショナルの倫理
●企業倫理以前の問題
第一は、まったく単純な日常の正直さである。
第二は、人間としての美意識の問題である。
第三のテーマとして、自らの時間を地域社会の活動に使う倫理的な責任があるという問題である。しかし、この種の活動は倫理とは関係がなく強制されるべきではない。責任とも関係がない。個人の貢献の問題である。仕事の外にあるもの、マネジメントに関わる責任の外にあることである。
●リーダー的地位にあるものの責任
リーダー的地位にあるグループの一員としてのマネジメントの責任と倫理とは、具体的には何か。リーダー的地位にあるグループの一員であるということは、本質的にはプロフェッショナルであるということである。そのようなグループの一員であるということは、ある身分、地位、卓越性、権限が与えられ、義務も与えられているということである。マネジメントの立場にあるものはすべて、リーダー的地位にあるグループの一員として、プロフェッショナルの倫理を要求される。すなわち責任の倫理を要求される。
●「知りながら害をなすな」
プロたるものは、顧客に対して、必ずよい結果をもたらすと約束することはできない。最善をつくることしかできない。しかし、知りながら害をなすことはしないとの約束はしなければならない。プロたるものは自立性を持たなければならない。顧客によって、支配、監督、指揮されてはならない。自らの知識と判断が自らの決定となって表れるという意味においては、私的な存在でなければならない。同時に、自らの私的な利害によってではなく公的な利害によって動くことこそ、彼に与えられる自立性の基礎であり根拠である。言い換えるならば、プロたるものは、自立した存在として政治やイデオロギーの支配に従わないという意味において、私的である。しかしその言動が、依頼人の利害によって制限されているという意味において、公的である。プロの倫理の基本、すなわち、公的責任の倫理の基本が、「知りながら害をなすな」である。たとえば、自らの事業が社会に与える影響について、業界で不評を買うとの理由から、適切な解決策を検討せず、あるいは検討しても実行しないマネジメントは、知りながら害をなしていることになる。知りながら癌細胞の増殖を助長している。
要点整理
◆企業と政府
今日においては、企業と政府との関係において、自由放任主義はもとより、重商主義も立憲主義も陳腐化している。それは、混合経済の進展、グローバル企業の発展、社会の多元化、マネジメントの台頭があったからだ。それらに対する一時的な回答の基準として、四つのことを考えなければならない。それは、①企業とそのマネジメントを自立した責任ある存在とすること、②変化を可能とする自由で柔軟な社会を守ること、③グローバル経済と国家主権の調和、④機能を果たす強力の政府の維持強化である。
◆プロフェッショナルの倫理
リーダー的地位にあるものは、身分、地位、卓越性、権限、義務が与えられている。リーダー的地位になるものの責任と倫理は、プロフェッショナルであるということである。プロたるものは、最善を尽くし、知りながら害をなしてはならない。プロたるものは自立性を持たなければならない。
所 見
◆企業と政府について
昨今の世界情勢に鑑みての企業と政府のあり方の問題に対する一定の解決基準についてドラッガーが述べているが、それについては、あまり異論はない。しかしながら、その問題の発端となる主要部分が抜け落ちており、その評価が行われていないことにとても疑問を感じる。
「自由放任は19世紀のイギリス中ごろのごく短い期間でしか行われていない。自由放任は経済理論モデルで政治理論や政府活動モデルではない。」という趣旨のようなことをドラッガーは言っている。しかしながら、『自由放任』という同じ言葉どおりでないにせよ、経済理論モデルか政治理論モデルであるかにせよ、自由放任主義的な考えが、世界経済を、企業と政府のあり方を大きくを変えた出来事が20世紀後半にあったのは事実であり、完全に抜け落ちている。
20世紀に入り、フリードマン、ハイエクなど『新自由主義経済』を提唱する学者の考え方を背景に、企業と政府の関係において極めて重大な変化があった。それは企業と政府との関係において重大な結果をもたらした。欧米においては、1980年前後に登場したレーガン、サッチャー政権時代を中心に、日本では、同時期に登場した中曽根政権と2001年に登場した小泉政権などが自己責任を基本に小さな政府を推進し、規制緩和、民営化、グローバル化を前提とした競争の促進、労働者保護の廃止などを行った。
ドラッガーは、アダム・スミスの考え方を起源とする自由放任(レセ・フェール)主義を死語扱いしているが、私は全く違うと思う。自由放任主義的な新しい自由主義経済を提唱する学者の考え方をバックボーンとし、政府が自らのマネジメントを弱め、大企業優先の政治を行ったのは事実だ。
2019年に世界で最も裕福な26人が、世界人口のうち所得の低い半数に当たる38億人の総資産と同額の富を握っているとの報告書を、国際NGO「オックスファム」が発表した。要するに、結果として格差社会が拡大したのだ。過去の政府の誤ったマネジメントの結果だ。
ドラッガーが述べている企業と政府の問題点は、それ以前の政府の大きな失策から起きていると言っても過言ではない。しかしながら、完全に抜け落ちているのは腑に落ちない。2001年11月に本書『マネジメント~基本と原則~』は書かれており、少なくとも、1980年前後の欧米諸国の動きについては、把握しているはずだ。重商主義、立憲主義、そして、自由放任主義的な考え方を根底に置いた新自由主義のプロセスは必ずあったと思う。『新自由主義』における企業と政府の関係の変化の評価がないまま、今日の課題を述べている気がする。あえて触れていない気がする。グローバル企業の暴走は予見できたと思うし、小さな政府による弊害も予見できたと思う。
確かに相対的に見れば、政府への信頼は弱まってはいる気はするが、昨今、北欧諸国などに見られるように、圧倒的に政府への信頼が高い国々もある。政府への信頼は、国民の暮らしを反映する。幸福感を反映する。彼らのマネジメントについて、また、政府と企業の関係をどのようにしているかについても、分析、評価すべきだと思う。総括はしっかり行わなければならない。
◆プロフェッショナルの倫理について
あらためてまとめると、「リーダー的に地位にあるものは、諸々の立ち位置からして、プロフェッショナルであることが求められ、プロであるということは、自立性を重んじ、責任と倫理をもつということである。」ということになると思う。「知りながら害をなすな」とは、医者は医者の、弁護士は弁護士の、マネジャーはマネジャーの与えられた本分から外れたことはしてはならないということ。それは、顧客によっても害されてはならない。公的な意識をもって責任を果たさなければならないということだと思う。
プロであろうとするということは、「立場を磨くこと」であり、プロであろうとしないということは、立場を磨かないということだと思う。
マネジャーやマネジメントの立場にあるならば、企業において事業を定義することがとても重要なように、その役割、本分、本質を徹底深めることが、プロフェッショナルであることにつながり、自立性と責任、倫理を有することにつながると思う。
プロフェッショナルという言葉を嫌う人もいる。プロフェッショナルであろうとすれば、自分自身に負荷がかかるし、自己と向き合うこと、他人と向き合うことが必要となる。しかしながら、その結果として、すなわち、その本分を深め、磨いていく結果として、人間であれば知り得る限りの精神的世界にたどり着くことができると思う。結局は自分に跳ね返ってくる。
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